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遥かなる島 名もなき魂の涙 第2部 ソビエトスターリンの野望 [歴史、社会学]

「ソビエト成立とスターリンの台頭」

1919年 東欧








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1923年3月 モスクワ郊外別荘
ウラジーミル・イリイチ・レーニン
「同志スターリンは、書記長として恐るべき権力をその手中に集めているが、私は彼が権力を必要な慎重に使うことを知っているかどうか疑う。スターリンはあまりに粗暴である。この欠点は書記長の任務を果たす上では、許容しがたい欠陥である。それゆえ私はスターリンをこの地位から除いて、もっと忍耐強く、忠実で洗練された、同志に対して親切でむら気の少ない、彼よりも優れた他の人物を書記長の地位に充てることを提案する。これは些細なことのように思われるかも知れないが、分裂を防止する見地からいって些細なことではない。将来、決定的意義を持つことになるかもしれない。」



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1925年1月19日「ロシア共産党中央委員会総会」
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシビリ(通称スターリン)
「我々の旗は、依然としてこれまでのように平和の旗である。しかし戦争がはじまれば、手をこまねいているわけにはいかないであろう。我々は、のり出さなければならないであろう。もっとも、いちばんあとに投げ入れるためにのり出すであろう。
(※この時のスターリンの予言通り、日本の敗戦が濃厚となった時にソ連は対日参戦します。)





1929年6月27日 モスクワ
スターリン
「強制収容所を今後、矯正収容所と名称変更する。死の懲罰を伴う恐怖の強制労働こそ囚人を矯正するのだ。」

(※これ以降、スターリンが死亡する1953年まで、ソ連全土に収容所が大量増殖し続けます。有罪判決を受けて収容所に行くのではなく、はじめに経済計画があり、その要請で冤罪かどうか問われる以前に"囚人"がでっち上げられました。)





「スターリンの経済政策」

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農民の集団的経営の組織化
集団化に反対する農民をシベリア収容所や荒れ地に追放。(850万-900万人)


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1年以内に死亡、又は射殺。(400万-450万人)
餓死者(350万人)


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スターリン(チャーチル英首相との会話で)
「農業集団化は激烈な戦いでした。相手にした農民の数は1,000万人でしたよ。・・・強情を張った連中には極北地方の土地をくれてやりました。」



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1931年11月11日 全連邦共産党中央委員会決議
スターリン
「コルイマの金開発を促進せよ。各国の共産主義運動支援のため、金の備蓄量を増やす必要性がある。」
毎年40-60万人が死亡


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バルラム・シャラーモフ(奇跡的に生還した囚人の一人)
「金鉱の作業班はたちどころに消えてしまう。1日に16時間の労働を強いられ、真冬の-60℃の野外にテントを張って寝ることもあった。極寒と飢え、ボロ着に若い男たちでさえ20-30日で消耗しきってしまう。失敗やノルマが達成できないと、永久凍土の中の懲罰房に入れられる。冬に働いた班は冬中に全員が死んで消え、夏には新しい班が来て、また消えていく。厳寒と過酷な労働で肺を侵され、咳をすると壊死した黒い細胞片が一緒に飛び出してくる。凍傷にかかった手足の指は医者がハサミで切り取る。激しい飢餓で死体置き場の死体を切り刻んで食べる囚人もいた。」



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スターリン
「反抗心のない労働者を育成するには、密告を奨励し、給食を飢餓すれすれにして、ちょっぴり食い物を増やしてやると彼らにたきつけることだ。そうすれば、労働力を最大限に引き出せる。彼らの苦情など一切無視すればよい。そうすれば、人間の個性や主張など簡単に打ち砕くことが出来るのだ。」



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1937年
スターリン「古い細胞を除去し、党は一新されねばならない。」

自らの権力基盤を固めるため、共産党、政府内の政敵を次々と粛清
粛清の死の嵐は一般市民にも及び、ソ連全土に波及


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夜がふけると、身を寄せ合って夜が明けるのを息を殺して待つよりなかった。こうしている間にも、自分に恨みを持った人間が復讐のため、あることないことを告げ口して、処刑隊が向かっているかもしれない。もう誰も信用出来なかった。人々は疑心暗鬼に脅え、毎夜、恐怖に震えおののくしかなかった。いつ死神がドアをノックするかわからず、おちおち眠ることも出来なかった。死刑執行人(秘密警察)が現れるのは、決まって深夜か早朝だった。

身に覚えのない密告が盛んに行われ、数えきれない人間が深夜に連行され銃殺。
子供が親を密告したケースも少なくない。まだ善悪の判断すらつかぬ子供が、多くの人々の前で表彰を受け無邪気に喜ぶ場面もあった。実の子に密告された親は、強制収容所に送られ悲惨な死を遂げる



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1937年7月10日 ベルリン
アドルフ・ヒトラー
「スターリンは多分、気が狂ったのだ。そうでなければ大粛清など説明がつかない。いつか我々はこの危険を根絶せねばならない。スターリンとその部下は病気なのだ。一掃しなければならない。」






1941年8月16日
最高総司令部指令第270号
スターリン
捕虜になった将兵は祖国の裏切り者とみなし、その家族は逮捕し、国家の保護と援助は停止する。脱走者と投降者見つけ次第その場で銃殺せよ。

ソ連兵の捕虜が収容されているドイツ軍収容所を航空機で爆撃
以下の内容が書かれたビラを撒く。


祖国を裏切った者たちへ




「モンゴル赤化と草原の覇者」


1926-1928年 モスクワ
モスクワ駐在のモンゴル首脳と日本外交団が会談。


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モンゴル副首相アナンディーン・アマル
「日本の領事がモンゴルに来ることは賛成です。」

しかし、ビザはソ連介入によって取消される。



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1927年10月
ソ連外務人民委員部
「日本の対モンゴル政策の問題を検討した結果、日本が「※パンモンゴリズム」の思想を利用し、モンゴル系の人々を一つのモンゴル国家に統一することによって「モンゴル問題」を解決しようとしている、という結論に至った。」

※パンモンゴリズムとは
日本を首長としてヨーロッパ人に抵抗し積極的な闘争を展開することを目的として東アジアのすべての人民たちを一つに結集させるという思想のこと。



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1932年7月2日 モンゴルウランバートル
ペルジディーン・ゲンデン モンゴル首相就任
「私はラマ教信徒である。赤色帝国主義であるソ連が推し進める農業集団化やラマ僧粛清政策を撤回し、ソ連軍が、モンゴル国内に駐留するのに反対する。」



1935年1月8日 貝爾湖(ボイル・ノール)東北岸オランガンガ哨所
ソ連派(チョイバルサン副首相支配下)のモンゴル兵が満州監視所の兵を脅迫。
満州国内の哈爾哈(ハルハ)廟および付近の土地を占領し、陣地を構築。

1935年1月24日
哈爾哈(ハルハ)廟占拠中のモンゴル兵(ソ連派)が、調査に来た興安警備軍部隊(満州軍)に発砲。瀬尾中尉が戦死。



1935年12月19日 貝爾湖(ボイル・ノール)西方満州・モンゴル国境付近
警備中の満州軍が、モンゴル兵(ソ連派)から銃撃を受ける。これに対して満州軍が反撃。


親日家であるモンゴルのゲンデン首相、モンゴル兵(ソ連派)に以下の指示を出す。
「モンゴルと満州の国境線から数キロ撤退し、戦闘を禁止する。」



1935年12月30日 モスクワ クレムリン宮殿
スターリン、モンゴル首相のペルジディーン・ゲンデンをモスクワに呼び出し、会談。


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スターリン
「モンゴル人民共和国が日本帝国主義と闘う断固たる体制をかためるために、ソ連・モ相互援助条約を締結し、日本を一掃しなければならない。またラマ僧と仏教はモンゴル独立の敵であり、日本帝国主義を助ける勢力である。これも同様に一掃しなければならない。」
(※この時代のモンゴルではラマ僧が大きな政治力を持っていたのですが、スターリンは影響力を削ぐためにラマ僧を排斥しようと考えました。)


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ゲンデン
「モンゴルが対外的に緊張状態にあるときに、国内ラマ僧の問題を強調し、闘争しようとする者はむしろ反革命分子である。」

スターリン「もし日本が攻め込んできたら、どうするつもりなんだ。」

ゲンデン「私は祖国を捨てて逃げたりはしない。」

スターリン「坊主どもはどうするんだ。」

ゲンデン「我国は人口が少ない。ラマ僧は僧を辞めさせて働かせるつもりだ。」

スターリン「ゲンデン、ラマ僧といっしょに社会主義をやろうなんてよく言うな。お前はモンゴルの皇帝になりたいのじゃないか?」

ゲンデン「血だらけのグルジア野郎、貴様こそロシアの王になったつもりじゃないのか?私がモンゴルの王になって悪いか!」

ゲンデン、スターリンを平手打ちし、パイプを取り上げ、投げつける。



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1937年7月 クリミア半島 フォロス
ゲンデン元モンゴル首相を「日本のスパイ」容疑で、逮捕

ソ連内務人民委員部による拷問の末…
「私は日本に雇われてスパイになった。」と偽の自白を強要
ソ連があらかじめ作成していた112人のリストを共犯者として同意強要。



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1937年11月26日 モスクワ法廷
「ゲンデンは国の防衛問題に注意を払わず日本に容易に屈服し、日本による祖国の占領を許すと同時に、ラマ僧を援助し、反革命勢力との闘争を緩め、ソ連との友好関係を絶とうとした。」

ペルジディーン・ゲンデン元首相、処刑




1937年8月24日
ソ連内務人民委員代理フリノフスキー
国防人民委員代理スミルノフ
在モンゴル・ソ連大使ミロノフ

モンゴルにおける日本のスパイ組織の摘発を名目に115名の名前を載せた名簿をチョイバルサンに渡す。
(※この名簿における日本のスパイ組織は実在したものではなく、ソ連側によって捏造されたものです。)



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チョイバルサン モンゴル内務大臣
「日本のスパイがモンゴルに潜入している。公的機関にもスパイ、破壊分子、殺戮者が侵入している。」

日を追うごとに上のコメントを繰り返しつぶやくようになるチョイバルサン。



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1937年9月11日 モンゴルウランバートル
内務省要員会議
チョイバルサン全軍総司令官
「わが国で反革命的日本のスパイ事件が摘発された。多くの幹部要員が参加した重大事件である。今夜から昼夜の区別なく取り調べを始め、25日以内に完了することを命じる。誰から反革命組織に勧誘されたのかを問いただし、厳格に取り調べること。決して手を緩めてはならない。彼らの主たる目的はモンゴルを日本の植民地とすることにある。
また、ラマ僧は我が国にとって非常に危険な存在であり、日本軍当局は彼らを利用することをたくらんでいる。ラマ僧はその陰謀の実現にあたって、日本帝国主義者や中国侵略者の支援を頼みにし、侵略的勢力の手先となり果てた。上級僧侶は日本帝国主義者の脅威が緊迫することにひそかな期待をかけ、自分たちの反対活動を活発化していた。」

チョイバルサン、800の修道院のほとんどを破壊、僧侶、軍人、民間人の29,000人を処刑
「モンゴルのスターリン」と呼ばれる。


チョイバルサン補佐官 シャグダルスレン
(モンゴルの粛清は、スターリン主義からの圧力、スターリンの手先であるソ連内務省の幹部、モンゴル駐在のソ連顧問、大使らの直接的な関与、強制、監視の下で行われた…。)



1939年3月7日
党中央委員会幹部会会議
チョイバルサンによるモンゴル国内の大粛清に唯一反対していたアマル首相。
反革命活動で告発され、首相職を解任。モンゴル人民党を追放、逮捕



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1941年7月10日 モスクワソ連法廷
アナンディーン・アマル 元モンゴル首相
「私は無罪である。モンゴル人民共和国が独立国であると言うならば、なぜ私はソ連の法廷で裁かれなければならないのか。私はモンゴル人民共和国の市民である。私を裁くことのできる法廷はモンゴルの法廷であって、ソ連の法廷でない。チョイバルサン元帥を抹殺せよと指示したという主張は嘘である。私がチョイバルサンを憎んでいることは本当である。彼がわがモンゴルの人民の虐殺を組織しているからである。私はソ連邦もソ連共産党も好きではない。私はモンゴル人民を愛している。同じようにロシア人民に同情を寄せている。私は決して共産主義者とその政府を信じたことはない。なぜならば、彼らは他の大国と同じように、モンゴルを植民地化すると言う政策を押し進めているからである。モンゴル人民共和国に反革命集団など存在しない。全ての調査はモンゴル人の虚偽の自白にもとづいてデッチ上げられた残忍なものだ。被疑者はすべて無実である。これが真実なのである。」

日本のスパイとして死刑判決、銃殺刑




「日本とスターリンの国境紛争」

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1939年5月11日 フルンボイル平原 ノモンハン
モンゴルと満州の国境付近で巡回中のモンゴル軍と満州国軍が遭遇し、交戦。
モンゴル軍(ソ連軍)VS満州国軍(日本関東軍)の大規模な紛争へと発展。



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1939年7月9日
スターリン
「今まで二年続いた中国との勝てない戦争の結果、日本はバランスを失い、神経が錯乱し、調子が狂って、イギリスを攻撃し、ソ連を攻撃し、モンゴルを攻撃(ノモンハン事件)している。この挙動に理由などない。これは日本の弱さを暴露している。こうした行動は他の全ての国を一致して日本に敵対させる。」





(※動画は海拉爾(ハイラル)要塞前の関東軍第8国境守備隊とソ連軍機甲部隊(BT-7戦車?)との死闘を描いています。)

4か月に及ぶ戦闘で結局、決定的な勝敗がつくことなく、停戦。





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今回はソビエト連邦を世界で覇権を競う存在まで作り上げた鉄の男、スターリンを取り上げてみました。現在、日本国内一般におけるロシア、旧ソ連のマイナスイメージはすべてスターリンの政治から始まっていると言っても過言ではないでしょう。戦後、共産主義国家を形成した中国の毛沢東、北朝鮮の金日成、カンボジアのポル・ポト等は、すべてソ連とスターリンをお手本としています。戦後から現在に至るまで世界に大きな影響を与えました。

ところで、今回、当時のモンゴルについての資料が少なく編集に苦労しましたが、何とか形にすることができてよかったです。日本とロシアの関係史のお話はまだまだ続きます。




遥かなる島 名もなき魂の涙 第一部 日露戦争

ヒトラー対スターリン悪の最終決戦


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