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遥かなる島 名もなき魂の涙 第一部 日露戦争 [歴史、社会学]

「日露戦争開戦」

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明治天皇
四方の海は皆兄弟と思う。この世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのだろう。




1902年1月16日 ロシア サンクトペテルブルク
ロシアに留学していた広瀬武夫海軍少佐に帰国命令。恋人のアリアズナ・アナトーリエヴナ・コヴァリスカヤと最後の日を過ごす。
Aの文字が入った小さな銀の懐中時計を広瀬少佐に渡すアリアズナ。


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アリアズナ
「私の名前の頭文字だけど、Amour(フランス語、愛)の意味も含んでいます。いつまでもあなたのお傍において下さい。私は本当に武夫さんには命をかけています。駅には行きません。悲しくなるだけだから。今夜10時に、かげながらお立ちを見送っています。
でもお手紙をください。どんなに短くても、かまいません。いえ、やっぱり短い手紙ではだめ。あなたのしたこと、感じたこと、途中で出会ったこと何でもいいからできるだけ詳しく書いてください。毎日、あなたの手紙を待っています。近いうちに、わたしも日本に行けると思っています。きっと行けますよね。」


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広瀬少佐
「運命が許すならば、です。」







1904年2月23日 遼東半島旅順沖
広瀬少佐
ロシア軍の友人に宛てた手紙。
「今度、不幸にもあなたの国と戦うことになった。何ともいいようがないほど残念である。しかし、これは国と国との戦いで、あなたに対する個人の友情は昔も今も少しも変わらない。いや、こんな境遇にいるからこそ、却って親しみも増してくる。
平和が回復するまでは、かねてから申し上げたように、武人の本懐をお互いに守って戦い抜こう。現に、武夫は戦艦「朝日」の12インチ砲を指揮して、旅順沖の貴艦隊を熱心に砲撃した。それにもかかわらず、今度は貴軍港を閉塞しようと願い、「報国丸」を指揮して今、その途上にある。さらば、わが親しき友よ、いつまでも健在なれ。」



1904年3月27日
沈没寸前の日本軍艦で行方不明の部下を捜索後の広瀬少佐、ロシア哨戒艇からの速射砲が頭部に直撃して戦死。ほぼ即死だった。







「旅順要塞陥落、203高地の死闘」





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1905年1月1日
ロシア軍旅順要塞陥落後の祝賀会。
賑やかな祝賀会をよそに、薄暗いランプの前に腰かけ、独り涙を流す乃木希典陸軍大将。



今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか。



1905年1月2日
明治天皇
「ステッセル将軍が祖国のために尽くした苦労を称賛し、武士としての名誉が保たれることを望んでいる。」

ロシア軍が野菜不足で苦しんでいることを聞いた乃木希典大将、2台の荷馬車に野菜を満載して、鶏、ブドウ酒と一緒に送る。



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1905年1月5日 遼東半島旅順 水師営

ステッセル将軍
「貴国の皇帝陛下よりこのような厚遇を頂いたことは、私にとって最高の名誉です。日本軍の不屈の武勇は世界最高です。」


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乃木希典「ロシア軍の守備の頑強さこそ、称賛されるべきものでしょう。」


ステッセル「この戦争で失った閣下の二人の息子さんのご冥福を祈ります。」

乃木希典
「私は二人の息子が武家に生まれ、軍人としてその死に場所を得たことを喜んでおります。長男は南山に倒れ、次男は203高地において戦死しました。この様に彼らがともに国家の犠牲となったことは、ひとり私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足しているだろうと思います。」

ステッセル「閣下は真に世界の偉人です。私らの遠く及ぶところではありません。」

乃木希典
「様々な場所に散在しているロシア軍の戦没者の墓を一カ所に集め、その所在氏名を明らかにしたいと思います。」

ステッセル「閣下は死者のことにまで注意されますか。ご厚意は感謝する言葉もありません。」

米国人記者「この模様を映画に撮りたいのですが。」

乃木希典
「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が残るような写真は撮らせるわけにはいきません。」

各国記者団「ぜひ写真撮影をお願いします。」

乃木希典
「ステッセル将軍の方々に帯剣して頂いた上で、我々が友人となって同列に並んだところを1枚だけなら許可しましょう。」

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晩年のステッセル将軍は常々周囲に以下のように話していた。
「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない。」












「日露戦争終結後」

1906年7月
長野市 長野師範学校講演「日露戦争の英雄」
校長が講堂で全員に乃木将軍を紹介、その日露戦争での勲功をたたえた後、乃木に登壇を促した。
ところが、いかに勧められても乃木は演壇に登ろうとしない。

「ちょっとでも」懇願する校長。
乃木は涙を流し、その場に立ったまま一言だけ語る。


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乃木希典「私は諸君の兄弟を多く殺した者であります。・・・。」



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乃木希典
「数万人の兵士を犠牲にしたことが、哀しく恥ずかしく、今更何の面目があって諸君と会う顔があるだろうか。」




「ロシア帝国 ロマノフ王家の最期」

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1918年7月17日深夜
エカテリンブルク イパチェフ館の地下室



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深夜、暴徒からの避難と言う名目で館の地下室に集められるロマノフ王家一家。



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ヤコフ・ユロフスキー警護隊長
「ニコライ・アレクサンドロヴィチ。貴方の親族がソビエト・ロシアに対する攻撃を継続しているという事実を考慮して、ウラル・ソビエト執行委員会は貴方を処刑する事を決定した。


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ニコライ2世「何と言ったのだ?」
ユロフスキー、拳銃を取り出し、近寄って来るニコライ2世の顔めがけて一発撃つ。


その後、他の兵士によって皇太子、皇后、末娘アナスタシアを含む皇女3人も惨殺。




(※この皇帝一家の殺害事件は以降タブーとして公には伏せられ、ニコライ2世は2008年に名誉を回復されるまでの90年間、犯罪者として扱われ続けました。)






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1891年5月 長崎
ニコライ2世
「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がいい。」





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日本とロシアの関係を正しく知るためにはこの時代から知ることが必要だと思って、今回は日露戦争の前後を取り上げてみました。
日本が極限まで国力を消耗して大国ロシアにかろうじて辛勝したこと、その後止めるに止められず、歯止めの効かない状況に追い込まれていった歴史は現在の日本、これからの日本の教訓としても、大いに生きてくるように思いますね。

今回は日本とロシアの関係歴史、あの島々の問題第一弾シリーズとしてお送りします。次回はもう少し、時代を進めて見ていきたいと思います。
悲しみの歴史はまだまだ続きます。





最後のロシア皇帝ニコライ二世の日記

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