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遥かなる島 名もなき魂の涙 第5部 戦争逆転の切り札 [歴史、社会学]

1945年3月19日 日本 四国西部上空






(※日本海軍の航空機、零戦の後継となる新型戦闘機、紫電改は戦後に一部が米国に接収され、米国の良質な燃料を入れて飛ばせたところ、米国のどの戦闘機も紫電改に追いつくことはできませんでした。)



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1945年4月7日 日本 九州南西沖




(※戦艦大和は、現在の貨幣価値に換算して約2,600億円の巨費が投じられた日本海軍の象徴ともいうべき戦艦です。米軍が上陸した沖縄の海岸に乗り上げて陸上砲台となる特攻を行うため出撃しましたが、途中九州南西沖で米軍機300機以上による集中攻撃で魚雷と爆弾30発以上が命中、撃沈されました。大戦中には戦艦らしい戦果をあげることはできませんでしたが、艦船に採用された様々な技術は、戦後日本の重工業繁栄の土台となりました。)




「家族、友のために祈る詩」

1944年10月19日 フィリピンルソン島 マバラカット飛行場
第201海軍航空隊本部


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大西瀧治郎海軍中将
「戦局は皆承知のとおりで、もし今度の作戦に失敗すれば、それこそ由々しき大事を招くことになる。それには敵空母の甲板をつぶして飛行機の発着を不可能にする必要がある。少なくとも1週間、空母の甲板が使えなければ良いことだ。そのためには零戦に250kg爆弾を抱かせて体当りさせるほかない。これ以上に確実な方法は無いと思うが。」


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城英一郎大佐
「もはや通常の戦術ではこの戦争には勝てません。一艦一殺!体当たり攻撃あるのみです。私は軍令部へ行き、私を指揮官とした体当たり特別攻撃隊を編成するよう意見を具申するつもりですが、その前に大西次長の推薦を頂きに来ました。ぜひ!お願いします!戦局を一変し勝利を掴むには、もはや決死ではなく、必死、十中十死の体当たり攻撃しかないと私は確信します!」


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小園安名中佐
「私は反対です。パイロットを鉄砲玉のように飛ばされてはパイロットがあまりにもむごいです。そんな胸糞悪い戦法とれません!当基地内でも事故は連日のように起きています。飛行時間が200時間を割るものでも第一戦に送らなければならないのが現状であります。」



司令
「今日、マニラから大西次長がお見えになられた。前から海軍内で問題になっていた特別攻撃法を提案された。だが、まだ私はお受けするとは言ってない。貴様らの率直な意見が聞きたい。」


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飛行員
「良いも悪いもありませんよ副長。同期の奴らは半分以上もアメ公にやられてしまったんです。ここで仇を取ってやらないと、あの世で合わす顔がありません!

「そうですよ。どうせ一度は死ぬんです。死ぬなら敵空母のど真ん中にぶつかってやります!

仇討ちだぞ!みんな!」

「おおっ!!」


(※このときに「神風隊」と命名される、特別な体当たり特別攻撃隊が編成されます。しかし戦争末期には、この体当たり自爆攻撃が組織化、半ば強制化されていきます。)



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1944年11月
大西瀧治郎
後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線で戦う。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰られた時、日本民族の将来を信じて、私は必ず特攻隊員たちの後を追うだろう。」





大西瀧治郎
「地上にいれば恨まれたたかれ、空に舞い上がればなすすべもなく撃ち落とされる…かわいそうだよ、あまりにもかわいそうだよ。特攻は続ける。部下に死に場所を用意してやるのも将としての責任なんだよ。私はそれが彼らへの大愛だと信じている。」

特攻で亡くなった人たちの全ての名前を記録し、線香をあげ、涙を流す毎日。

俺が握手して特攻で死なせた若者が261人もいるんだよ…。彼らは家庭生活も知らないで死んでいったんだよ…。こんな俺が家庭生活ができるか!!」






1945年5月26日 鹿児島県 万世飛行場

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特攻出撃数時間前





(※特攻機で出撃したものの、奇跡的に一命を取りとめた搭乗員の最期です。)

1945年8月15日 東京
大西瀧治郎
「国民も死んだ者もみんなが納得できる負け方、この戦争はね…国民が好きで始めたんじゃないんです!負けるということはですよ?天皇陛下御自ら戦場にお立ちになって、閣僚も我々幕僚も敵に体当たりして破れてこそ、負けたと言えるんじゃないですか?和平会議なんかは生き残った国民が考えればいいだけのことです…私はそうなることを信じて特攻隊を飛ばしたんです。それを信じてくれたから、特攻隊員の若い諸君は死んでくれたんです!何人が特攻で死んだと思いますか?2600人もですよ。私が一人ひとり握手して送り出したんです。そんな彼らに、誰が…日本が負けたと言えますかっ!!」



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大西瀧治郎
「特攻隊を作った私への非難は、死後も止むことは無いだろう。百年後でも理解されることはないだろう。」





1945年8月16日 東京

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特攻隊の立派な霊たちに告げる。
今までよく戦ってくれた。ありがとう。
心から君たちに感謝する。
君たちは日本の勝利を信じて、肉の玉として散って行った。
しかし君たちの尊い信念は遂に達成することは叶わなかった。
私の死をもって、君たちと君たちの遺族に謝罪する。

次にこれからを生きる戦後の一般の青少年たち。
軽率な行動は敵に利益を与える行動だと思って、我慢して耐えてほしい。
だが、どんなに苦しくても日本人としての誇りを決して失わないでほしい。
そして子供たちは日本という国の宝だ。
平和な時代であっても、特攻(で散っていった者達の願いを受け継ぐ)精神を持ち続け、日本民族の福祉と、世界人類の為に最善を尽くしてください。

大西瀧治郎






「握りつぶされたソ連軍侵攻の兆候情報」

1945年2月 スウェーデンストックホルム

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ストックホルム→東京電報
小野寺信少将
「ヤルタ密約によると3か月後の8月8日以降にソ連は対日参戦する予定です。ソ連参戦までに戦争を終結するべきです。」


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小野寺少将、中立のスウェーデン王室を通じて、英国王室に和平工作するように依頼。



1945年6月24日 東京→ストックホルム電報

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日本大本営返信
「帝国は必勝の信念を持って戦争を続行する決意があることは貴官も承知のはず。しかし最近ストックホルムにおいて、中央の方針に反して、和平工作をする者があるとの情報がある。」




1945年4月5日 モスクワクレムリン

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モロトフソ連外相
ソ連政府は日ソ中立条約の破棄を日本政府に通告します。ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻ります。」


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佐藤尚武駐ソ日本大使
「条約の第3条に基づけばあと1年は有効なはずです。」


モロトフソ連外相
「誤解がありました。日ソ中立条約は1946年4月までは有効です。」

(※ここでモロトフ外相は日ソ中立条約が「1946年4月までは有効」だと発言訂正しますが、後の1945年8月8日にソ連は対日宣戦布告します。
ただ第3条の条文は「期間満了の一年前に、条約の破棄を通告しないときは、条約は次の5年間は自動的に延長される」ということであり、破棄した場合、期間満了まで条約は有効とするような規定ではなく、佐藤大使の「あと1年は有効なはず」との主張は根拠として非常に弱いものでした。
残念ながらしたがって、戦後の日本の歴史家の主張である「ソ連は日ソ中立条約に一方的に違反して日本に攻めてきた」との論拠は非常に弱いのです。)



1945年4月26日 ソ連シベリア南部 チタ日本総領事館
チタ→関東軍→…× 東京 電報
浅井勇陸軍中佐
「シベリア鉄道の軍事輸送は1日につき12-15列車に及び開戦前夜と思わさせるものがあります。ソ連の対日参戦は今や不可避と考えられ、約20個師団の兵力輸送には約2か月かかるでしょう。」


同日 東京大本営本部

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河辺虎四郎中将
(スターリン氏はついに決意したのだろうか。私はスターリン氏にこの決意があることを信じることが出来ない。彼の対日好感、対米英不信を期待しているのではないが、打算に優れた彼が今更、東洋に新戦場を求めることはあり得ないと密かに考えている。これは単に私の希望だろうか。)


1945年6月10日
チタ→関東軍→…× 東京 電報
原田統吉
「7月か8月頃に、ソ連侵攻の可能性が最も高いです。」


関東軍転電禁止令
松村知勝陸軍少将 関東軍作戦課長
「(浅井電報、原田電報共に)東京に転電するな!

ソ連来襲の兆候を知らせる電報、東京に届かず

(※ソ連領域からの電報は全て満州の関東軍を中継して東京の大本営に転電していたのですが、ソ連軍による満州侵攻の兆候を知らせる電報を全て握りつぶしました(理由不明)。一説には作戦課の中心メンバーだった松村知勝や瀬島龍三はソ連に通じているソ連側工作員とするものもありますが、真相は不明です。)



1945年6月18日 米国ワシントン ホワイトハウス

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アーネスト・ジョゼフ・キング海軍作戦部長
「ソ連参戦が望ましいかどうかにかかわらず、ソ連参戦は必要不可欠ではない。頭を下げてまで参戦してもらう必要はないことを強調したい。確かに日本を叩くにはコストがかかるが、この点について、疑問の余地はない、アメリカ単独でやってやれないことはない。この現実をしっかり把握しておくことは、ポツダム会談で、大統領の手札を強化すると考えている。」



1945年6月26日 モスクワ

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キリル・アファナシエヴィチ・メレツコフ元帥
北海道まで占領してみてはどうか?」


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モロトフ外相
「ソ連軍の北海道上陸は、連合国によって乱暴なヤルタ協定違反と糾弾されるでしょう。」


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ヴォズネセンスキーソ連国家計画委員長
「強力な防衛線を敷く日本軍の攻撃のもとにソ連軍を曝すべきではありません。」


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スターリン→トルーマン米大統領
千島と北海道北部の日本軍をソ連軍に対し降伏させるようにお願いする。周知のとおり日本は1919年から21年にかけ、ソ連の極東全体を占領下に置いた。もしソ連軍が日本領を占領しないとすれば、ソ連の世論は大いに憤激するでしょう。」

(※1919年から21年に、日本軍約73,000人を主とする連合軍が、ロシア革命を起こしたレーニン率いる革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出するという大義名分でシベリアに出兵し、ソ連の極東地域を占領しました。スターリンは電報でそのことを言っています。)



1945年6月30日 モスクワクレムリン宮殿
中国国民党宋子文首相と会談。

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スターリン
「ソ連は極東での戦略的影響力を強めねばなりません。日本はドイツ同様、無条件降伏しても破滅はしない。日独国民は非常に強い。ベルサイユ条約の後、ドイツは15-20年で復興したが、同じことが日本でも起きます
ソ連にはクリル諸島が必要なのです。我々はオホーツク海に閉じ込められて、太平洋への出口がない。日本を東西南北あらゆる方向から弱体化させることが必要で、そうなれば日本もおとなしくなる。しかし我が極東には適当な港がない。だから中国の港がいる。我々には大連と旅順が30年間必要です。日本が降伏後に復興しても、我々はそこから日本を攻撃できる。」





「原爆開発競争」

1943年6月 東京 理化学研究所

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仁科芳雄博士
「核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10kgが必要で、この量で黄色火薬約18,000t分の爆発エネルギーが得られます。」


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東条英機首相兼陸軍大臣
米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける。」

東条英機首相、仁科研究室に原爆開発を指示。
(※この仁科研究室による原爆開発研究は2号研究と呼ばれるようになります。)



1944年2月7日 東京国会議事堂 貴族院(衆議院)

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田中館愛橘議員
「ウラニウムを燃料に使いまして、それから動力をだそう、そういう企てもあると聞きますが。」


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東條首相
「(大日本帝国は)科学技術の偉大な力を持っているのであります。この力に目覚め、しかも進んで広く外国の長所を取って、世界の科学水準を突破しようと努力中であります。」



1944年2月 東京皇居

東條首相
「陛下、戦局は極めて困難な状況下にあり、起死回生の決定打として、原爆の製造を急がせておりました。完成すれば最初にハワイに落とし、その威力を示し、戦況を日本軍有利に導く計画です。」


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昭和天皇
「数ヶ国が新型兵器開発を競っているとの事だが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注し完成させ、使ってくるようになるだろうから、全人類を滅亡させる事になる。それでは日本が人類絶滅の悪の宗家になるではないか。またハワイに投下する計画との事だが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地民とともに苦労し今日を築きあげたところである。そのような場所に新兵器を使用する事には賛成できない。」



皇居退出後

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杉山元参謀総長
「参謀総長の立場にある者として日本を敗戦に導くことはできない。戦争とは勝利を導くことが重要であり、今の日本は手段を議論できる時ではない。勝てば陛下にお喜び頂けるに違いない。そして陛下が求められる世界平和を実現できるではないか。」


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東條首相
「いや、陛下のご意志に反することは出来ないのだ…。」

(※この出来事の後、東條首相は辞任。内閣は解散、小磯国昭が後継首相に任命されることになります。)



1944年6月
杉山元陸軍大臣、再度秘密裏に原爆開発を急がせることを決定するが、原爆を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が発生。この事故が昭和天皇に知られる。



1944年7月 東京皇居

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昭和天皇
まだやっていたのか!!


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杉山元陸軍大臣
「…。」



1945年2月 東京 杉山陸軍大臣私邸

杉山元陸軍大臣
「私は日本が勝っても負けてもこの責任はとる覚悟だ。例え勝てたとしても天皇陛下の大御心を煩わせた罪は万死に値する。更に、多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることはできない。いずれにしてもその時が来れば自決してお詫びする覚悟だ。」

(※しかし、原爆開発自体は陸海軍それぞれ別の開発計画を持って、昭和天皇の知らないところで極秘裏に続けられました。)



1945年3月24日 ドイツユトランド半島 キール



(※敗戦目前のドイツによってドイツ人技術者、当時のドイツ軍の新兵器試作用部品と設計図、原爆の材料であるウラン560kgをドイツ潜水艦Uボートで日本へ輸送する最後の任務が与えられ、潜水艦建造技術を学んだ友永英夫技術中佐、ジェットエンジン技術を学んだ庄司元三技術中佐が同乗していました。出港後、北大西洋上でドイツは降伏、艦長は米軍に降伏しようとしますが、同乗していた友永中佐と庄司中佐は艦内から出ることをを拒否し自殺。ドイツ最後の任務のUボートは日本へ到着することはできませんでした。)




1945年5月 米国サンフランシスコ 
パレスホテルの専用ガーデンルーム





1945年7月16日 米国ニューメキシコ州ソコロ南東



米国人類最初の核実験「トリニティ実験」を実施。
(※動画はイメージです。)





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今回はソ連軍の対日参戦の兆候に経緯と絡んで、大東亜戦争末期の狂気のテーマ、特攻と原爆について取り扱ってみました。当テーマの趣旨は日露関係史で、最終的にはあの島々含めて日本はどうしていくのがいいか、具体的な話の進め方の方策まで行きたいのですが、当初予想していたよりも量が多くなりまして、もうしばらく知られざる物語におつきあい頂きたいと思います。
単に歴史事項を並べるだけの話を読んで頂くだけでは、現在の安倍さんの考え方では交渉に失敗して、禍根を残すことになりますので、日露戦争から話を持ち出して、現代にいたるまでの伏線を全て洗いざらい掘り下げることにしたため、想像以上の分量になってしまいました。

当方が歴史家と言えるかどうかは微妙ですが、歴史を記す者として、例えば日本人であれば日本が有利になるように書くのが普通ですが、当方はこれを二流として、一流は、自国の都合の悪い部分も他国の都合のいい部分も徹底して公平、客観的に「事実のみ」を記すものだと常々考えています。
その考え方は当シリーズの記事を作る際にもいつも心がけていることです。
先日、択捉島でロシアの青年フォーラムが開かれ、それに出席したロシア人ブロガーが「歴史は戦勝国が記す」というタイトルで講演したようですが、「まだまだホームバイアス(自国をひいきして物事を考える心の働き)がかかった見方しかできないのは二流だな。」と自負しました。



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あと、最近メドヴェージェフ露首相が択捉島に訪問し、それに対して岸田外相が駐日露大使を呼び出して抗議したようで、自身のロシアへの訪問も延期したようです。

岸田さん、直接そこへ行っていない人に抗議とか、そんなのいいです。
本当に北方領土が日本の領土であると思っていて、どうしても何か言いたいのなら例えば

「わが国へようこそ、と首相にお伝えください。」

くらいの格上の発言をしてほしいですね。別に言わなくてもいいですが。

当シリーズ記事の最後に今後の交渉にあたって、何を言い、提案するべきか、何を言っていいのか、何を言うのは厳禁か、についても、しっかり説明したいと思いますので、物語がそこに至るまでもうしばらくお待ちください。




ところで本編とは直接関係のない話題ですが。


※安倍さんのみ閲覧注意
(激怒する心の準備ができたら見てください。)

安倍さんはご存じかどうかはわかりませんが、ベンジャミン・フルフォードさんが戦後からの話について非常に重大な情報を一言さらりと言っています。1:12-1:19のあたりですね。
(死因について歴史的に隠蔽、虚偽工作の疑いあり。)

最近の安倍さん、70年間盗聴され続けてきたのに、「米国に全幅の信頼を置いている。」と発言したり、防衛省の司令部中枢に米国の軍人を入れようとしているのは非常に残念ですね。
当方は安倍さんが命惜しさに米国に日本を売り渡す売国奴になってしまったのかどうかが心配です。




遥かなる島 名もなき魂の涙 第一部 日露戦争
遥かなる島 名もなき魂の涙 第2部 ソビエトスターリンの野望
遥かなる島 名もなき魂の涙 第3部 バルバロッサ作戦と大祖国戦争
遥かなる島 名もなき魂の涙 第4部 ドイツ第三帝国の落日


日本・原爆開発の真実
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