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邪馬台国 卑弥呼 日本の紀元の真実8、9 [邪馬台国、卑弥呼を過去透視]




「冬の居城」と卑弥呼の金印
卑弥呼の「冬の居城」があった場所は、山口県下関市豊田町、豊田湖の湖畔である。上部が平らな小山の上に建物が広がっていた。村は水の中にまで広がっていた。その山の上部は完全に平坦だった。木の成長度合いから最近平坦にされたのではないことがわかる。「冬の居城」は砦のようになっていた。卑弥呼が奈良に写った後も冬に山口に戻った理由のひとつは交易である。博多湾、そこは卑弥呼の時代、大陸との玄関口だった。卑弥呼は最前線から一歩引いた山口西部から直接交易を指揮したのだ。

卑弥呼は山口で生まれ、奈良で女王になった。だが、北部九州が重要だったことに変わりはない。女王となった卑弥呼は外交を重視した。西暦238-239年、卑弥呼の初めての外交団が、中国魏王朝へと旅立った。その外交団には、卑弥呼の特使が同行した。その特使もまた女性だった。







卑弥呼の墓
宿敵、狗奴国との戦いのさなか、卑弥呼は崩御した。寒い冬のある日、肺炎を悪化させたのだ。卑弥呼の崩御した場所は「冬の居城」。墓も「冬の居城」の横に作られた。卑弥呼の墓は現在、平家の安徳天皇の陵墓参考地に指定されている。透視された墓の形状は前方後円墳。だが、安徳天皇は平安時代の天皇。古墳が造られることはありえない。この場所の地名は「王居址」。陵墓は古来より丸尾山と呼ばれていた。4方向に武人の陶像を配し、様々な副葬物と共に葬られた。

日本最初の連合国を統治した卑弥呼。その伝説は後に太陽の女神として伝えられた。卑弥呼が崩御した頃、九州は日食の闇に包まれたという。


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